〜イヴサンローランについて〜
イヴサンローラン(Yves Saint Laurent)は、 1962年、ピエール・ベルジェ、アメリカの実業家マック・ロビンソンと
イヴ・サンローランがオートクチュールのメゾン「イヴ・サンローラン」を設立したのが始まりです。
創設者の一人、ファッションデザイナーであるサンローランは若くして、多くのデザイナーに影響を与えることとなり、
彼のデザイナー活動にも大きな影響をおよぼすことになる。
また、彼の名をそのまま冠としたブランド名は、フランスが誇る世界的ブランドとなっている。
イヴサンローラン(Yves Saint Laurent)は、1936年8月1日、アルジェリアの港町、オランに生まれる。
父親が映画館のチェーンを所有していたことから裕福な家庭で育ち、母親の後押しもあり17歳の時に
パリオートクチュール組合経営の学校に入学。
3ヶ月のコースが終了うするころに、国際羊毛事務局(IWS)主催のデザインコンクールに応募しカクテルドレスを発表。
ここでドレス部門最優秀賞を受賞。
この時の審査員であったヴォーグ(Vogue)誌の編集長だったディレクターミッシェル・デブリュノフが、
この無名の若者のポートフォリオを見て、その才能に驚き友人のディオールに紹介。
翌年、ヴォーグの推薦によりクリスチャン・ディオールのメゾンに迎えられる。
1957年、クリスチャン・ディオールの死去に伴い、わずか21歳でディオールの後継デザイナーに就任し、
その翌年(1958年)の春に、初のコレクションで「トラベーズ(台形)・ライン」を発表。
「ヴォーグ」は「議論の余地のない完全な成功」と絶賛した。
このコレクションはニーマン・マーカス賞を受賞し好評を博す。
しかし、その後発表したひざ丈のホッブルスカート(裾幅の極端に狭いスカート)や、「ビート・ルック」と称された
ストリート感覚のスタイルはディオールのエレガンスにそぐわないとして不評。
1960年には、アルジェリア戦争に召集され、ディオールは代理の主任デザイナーにマルク・ポワンを起用し、
1回目のコレクションで「スリム・ライン」を発表し大好評を得た。
サンローランがパリに戻ったときにはディーオールのデザイナーのポストは兄弟子マルク・ボアンが就任し、
彼は事実上解雇された。
1962年、サンローランはピエール・ベルジュとマック・ロビンソンと共に、メゾン「イヴサンローラン」を発表。
バレンシアガを意識したニューモードは好評を呼び、プレタポルテの「イブ・サンローラン・リヴ・ゴーシュ」の1号店を
パリ左岸にオープン。
以後、シースルー・ドレス、ポップアート・ドレス、ロングブーツサファリ・ルック、ミリタリー・ルック、
モンドリアン・ルック、スモーキング、パンタロン、スーツなど、60年代を代表する新しいエレガンスのスタイルを発表。
70年代にはコサック・ルックやフォークロア調のでデザインを発表し、名実共にモードの帝王と呼ばれるようになる。
85年、レジヨン・ドヌール勲章を受勲。
93年、デ・ドール賞を受賞、98年「サンローラン・ジーンズ(SAINT LAURENT JEANS)」をスタート。
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